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賢者のことば 連載19

賢者のことば


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2006/04/08
 フィリッピンからの賢者のことば (19) 戻る次へ




 ・・・ 愛を打ち明けられないでいる人へ ・・・

愛は 心を傷つけ 胸を痛ませる
それが壊れたときには

捨てるにしろ 捨てられるにしろ

そして 愛は より大きく傷つける
それを壊した人の心を

しかし 愛は 一番大きく傷つける
あなたの心に

いつまでも 心明かさぬままに
愛したときには





 この賢者の言葉は、一番分かりやすい、恋心になぞらえてはいるが、思春期だけでなく、大人になっても、幾つになっても、心傷つくことは、数知れずあるものだ。 好むと好まざるとに関わらず、争いごとに巻き込まれることがあるからである。

 また、愛する人を得ることも、言ってみれば、争いごとの一つであろう。 例え、相思相愛で、他に誰も割り込む者がいないとしても、当の本人たちは、こころ安らかではありえない筈である。 神でない身である。 相手の心の中までは、知る由もない。 疑心暗鬼で、自分自身の心と争っている、とも言えるかも知れない。

 そして、多くの争いごとの場合、喧嘩両成敗ではないが、量の多少には差があるにせよ、勝ち負けとは関係なく、どちらも、胸痛む思いをするものだ。


 愛に関する場合、捨てる人の方が、痛みが、より大きいと言うが、それについては、私は分からない。 経験がないからである。 けれども、そうあって欲しいと思うし、それでこそ、救われる思いもするからだ。 そして、あらゆる争いごとでも、その様にあって欲しいと、常々、願っている次第である。

 普通、争いごとで勝つということは、公正・公平な手段では有り得ないのではないか、と私は思っている。 腕力にもの言わせたり、謀略を尽くしたり、ありとあらゆる良からぬ手段を尽くさねば、勝てる訳がない、と私は思っている。


 そうであれば、例え、勝利したとしても、うしろめたさや、胸の痛みなど、心の傷として残るのが、普通の人の感情ではなかろうか。 例えば、四谷怪談でも、何でも、幽霊やお化けがどうのこうのと言うのは、言って見ればこの心の傷が成せる業であるに違いない。

 また、「マッチ売りの少女」 や 「フランダースの犬」 といった、美しくも悲しい童話にしても、現実に、その様な少女や少年の死を、数多く眼にしてきたことであろう。 そして、そのどうしようもない、公平でない社会の中に暮らす普通の人たちの心の痛みが、誰が作った童話にしても、鎮魂の気持ちと共に、それらが昇華されて出来上がったものと考える。


 また、どのような極悪人でさえ、同じ立場に立って見たり、その境遇のことを思えば、誰とは言わず、その可能性があると分かるし、共感もできる余地がある。 だからこそ、伝説にも、映画にも、小説にもなる。

 ところが、しかし、世の中、普通の人ばかりではないことも、よく分かってきた。 人の気持ちなど、一向にかまわない、平気な輩もおる、と思うようになった。 おれおれ詐欺にしても、よくも巧いことを考えたものだと思うが、人の弱みに付け込んで大金を騙し取ったでは、きっと、罪の意識に苦しんでいるだろうなと思うと、思う方が馬鹿であろう。

 相手は、屁とも思っていない。 むしろ、あほうな奴もおると、胸を痛めるどころか、心は笑っているに違いない。 小さな争いや大きな争いにしても、およそ、苦悩の跡が見られない決断や行動ほど、情けないものはない。 これでは、映画にも小説にもならない。 共感なんて、とんでもない。


 この賢者の言葉がいうところの、一番の痛手かもしれない。 救われないのである。 どうしたらいいのだろう。 この詩は、それに答えているのであろうか。

 愛を成就させることも、愛を壊すことも、従って、相対的に見れば、愛を壊されることも、何もしていない。 ただ、痛手を受けることを恐れて。 事態を進展させないままに。

 その何もしていない、そのこと自体に、問題があるように思えてならない。 何もしていないことが、そのことが、一番大きな、愛の代償を受けることになると。






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