賢者のことば 連載17
賢者のことば
・・・ 最高より最善 ・・・
最高のものを 持っているからといって
最高に幸せな人だ というものでもない
むしろ 最高のものは 必要としないでしょう
そこにあるものの その最善を引き出せる人ならば
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鑑識眼
人が、作ったり、造ったり、創ったりするものは、確かに、出来・不出来があるものだ。 普通の人が見て、直ぐに良し悪しが判別できるものもある。 また、高度な鑑識眼 (モノを見る目・能力) を必要とするものも多いはずだ。 普通の人では、その良否が見分けられない。 だから、あらゆる分野で、品評会や審査会や選考会などが行われるているのも、そのためであろう。
また、それらを評価する側にも、ものを見る眼、即ち、鑑識眼については、普通の人よりは、ましかも知れないが、それでも、レベルの低い人も中にはいるだろうし、それは、また、当然のことでしょう。
また、良き製作者が良き鑑識者かといえば、必ずしもそうではないでしょうね。 私は、メーカー育ちの人間であったから、よく言われたことがある。 製作者の論理で、もの造りをしてはいけない、顧客の視点に立てと。 まさに、そのとおりである。 だから、良き鑑識者とは、製作者の視点も、鑑賞者の視点も、兼ね備えていなければならないということでしょうね。
cf. プロの意識
鑑識眼のレベルが低いと
鑑識眼のレベルが低ければ、そのレベルを越える作品の優劣が決められない、というか優劣が判らない。 山を下から見上げても、どれが高いか区別できないようなものだ。 むしろ、近くの山が高く見えるのと同じだ。 もしくは、どれも同じように見えてしまうものである。 山の高さは、視点を高くしなければ、比較できない。 鑑識眼についても同じで、そのレベルを高くしなければ、誤った鑑識結果を招くことであろう。
私などがいい例である。 書道展などを観ても、どれもこれも上手に見えて、優劣が分からない。 それはそうだろう。 むかし、習字の時間は、遊びの時間と考えていたから、基礎が出来ていない。 筆順は出鱈目で、いくらゆっくりと時間をかけて書いても、ミミズが這ったようになる。 大体、真っ直ぐに、線も引けない。
上手な人は
一方、上手な人は、いくら私より早く書いても、見るからに綺麗いである。 また、わざと汚く書いてくれと頼んで、歪んでいたり、チグハグな線であったり、まるで小学生が書いたような文字に見えても、私のものと違って、それなりに味わいがある。 不思議と言えば不思議、当然と言えば当然のことかも知れない。
音痴について
それでも、私は、未だ、その程度であれば、自分が上手か下手かは判別できる能力を持っている。 それが、どこかで聞いたことがあるが、本当に音痴と言われる人は、それが出来ないらしい。 自分が下手糞であることすら気がつかないらしいから、カラオケなどで、いつまでもマイクを離さない。
だから、書道についても、私が一年勉強すれば、それなりの、五六年も勉強すれば、それなりの鑑識眼のレベルが向上するだろうと思う。 その根拠は、今はレベルが低くても、少しでも違いが分かるからである。
となれば、努力すればレベルも上がるというものだ。 今の段階で違いが判らないようであれば、努力も糞もない。 ところが、字を書くとなると、まったく別だ。 真っ直ぐな線は、自信を持って言えるが、努力しても書けないであろう。 そんなものだ。
最善を引き出す
言い換えれば、鑑識眼が低ければ "猫に小判" というもので、いくら最高のものを持っていても、その程度の扱いしか出来ないであろう。 そのものが持つ最善の使い方が出来ないということだ。 ものでも人でも何でも、最善を引き出せば、最高でなくても、類のない輝きを放つようになるものだ。
その最善を引き出す能力こそ、この賢者がいう最高のものであろう。 ところが、それが中々難しい。 特に、日本人が最も苦手とするところであろう。 というのも、学問の分野でも、音楽の分野でも、いろいろ例があるが、外国で評価を得てから国内で評価されることが多い。
それまでは、まったく無名の人が一躍有名になったりする。 自分では評価はできないが、鑑識眼のある人が評価すると、なるほどと、直ぐ気付き、また、素直に受け入れて疑うこともしない。 権威に乗りやすく、また、それに流され易い性格と言えるだろう。 一言で言えば、"鑑識眼のレベルが低い" ということだ。
これでは恥ずかしい
ノーベル賞の田中さんの場合も、その例だろう。 外国の人に、その才能を認められた。 その後から気がついて、重役待遇にもし、文化勲章も与えるようでは、日本人の観る眼がないと言うことを世界に示すようで恥ずかしいではないか。
高価なブランド物で身を飾るのも、それはそれで幸せなことであろうが、いわば、自分では分からないものだから、他の人に見立ててもらったということでしょう。 だから、金もかかる。
一方、身近に手に入るもので、自分で手を加えたりして上手に着こなす人は、それこそ最高に幸せなことでしょうね。 何しろ、自分の鑑識眼で持って、自分で新しく創造し、それが輝くのであるから。 中には、ブランドを越えるものがあっても不思議ではない。
それに、人材でも、道具でもそうであるが、その持てる力を100パーセント引き出して使っているかというと、まったくといって、それは無いでしょう。
ともすれば、筆が悪いから上手に書けないと道具のせいにするものだ。 私など、魚が釣れないのは竿が悪いものと、つい、高いものを欲しがる。
更に悪いことには、持っていることに満足して腕は磨かず、お座なりに使うことだ。 まったく、所有する値打ちがない。 良いものは、より一層腕を磨いてこそ、本来の値打ちが出てくるものであろう。 ただ、持っていれば良いというのでは、本末転倒である。
私は、字が下手糞であることを認識しているだけでも、気がつかないより余程ましである、と偉そうなことを言ってしまったが、その後の努力が見られないし、今更、その気もないから、この賢者の言葉を講釈するに値しないものである。 堪忍
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