賢者のことば 連載12
賢者のことば
・・・ 靴は語る ・・・
想像して見てね いつもよ
他の人の靴を履いてみるの
どお? 痛くない?
もし、痛かったら きっと
その人も 痛いと思うよ
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カソリックの世界では、靴は履いている人そのものを表徴している、と考えているのではないだろうか。 私は、そう思っている。
足元を見る、とか、見られる、という言葉があるが、元はと言えば、この辺りに由来しているのではないか。 ホテルなどでも人を観る、一つの手段としていると聞くから。 いくら、札束をちらつかせようが、また、外見を繕っても、靴までは気が回らないことが多い。 普段どおりのものだったりする。
そして、実際に、靴は、日常的に使っているものであるからこそ、その生活振りがそこに集約されて表れているものだ。 足元を見ればそれが分かるのも、当然のことだろう。
靴が高価なものであれば良いとも言えないだろう。 手入れの具合とか、履き方、コーディネート具合とか、様々なことが分かるだろうと思う。
例え、足元まで気を配ったつもりでいても、観る人が見れば分かるだろう。 何も、足元だけを見ているのではない。 会話振りから、果ては雰囲気とかも含めれば、その人の人格や教養までも、分かるに違いない。
この詩でいう、他の人の靴を履くとは、まさに、そのことを指す。 物理的に痛いかどうか聞いているのではないと、わざわざ注釈する必要もないでしょうね。
何事にも、他の人の気持ちになって考えなさい、ということでしょう。 しかし、当たり前のようでいて、この詩も、また、人間の究極の目標でしょうね。
種の保存の原則
社会生活を営む動物は、強いもの順の、序列の世界を組むものや、ツルのように、誰がリーダというのでもない、対等の世界を組むものなど、色々ある。
そして、それなりの秩序が守られてきた。 種の保存の原則が、そこにはあった。 それを脅かすものがあるとすれば、天変地異に他ならなかった。
ところが、人間は、少し、特異な存在かも知れない。 その守られなければならない秩序が、法律という手段でしか、守り得ないほどに、その基盤が脆いものである。 本能レベルでは、最早、守れない。
それに、今の法体制も危なっかしい。 独裁者とか、多数派を裁けないところなど、万全である訳がない。 神でない我々が、作ったものだ。
いまや、種の保存の原則そのものが問われている。 人間あるが故に、様々な種を絶滅させてきた。 さらには、自らを絶滅させる瀬戸際まできているとも言えそうだ。
当たり前のこと
そもそも、他者のものを奪うといったことは、生きとし生けるもの全てが持つ基本的ともいえる能力で、本来、眼の敵にするほどのものではなかった。
個人的には、多少の労力を強いることにはなるが、生命を脅かすほどのものではなかった。 やり直しがきく。 野生とは、そんなものだ。
同種の間での殺し合いは、喧嘩レベルではあったかもかも知れないが、集団対集団の殺し合い (戦争) は、決してない。
ペンも剣も ・・・
人間だけが、富を蓄える術を得た。 そしてそのことが、戦争という悲劇を招くことになったことは、論証されている。 しかし、この種の富の奪い合いについては、ここでは論外として除外する。
私は、人間だけが、誇りや、名誉や、自尊心といった、眼に見えない富も得たと考えている。 私は、これらのものが、眼に見えないからといって守られべき財産ではない訳がない、とも思っている。
むしろ、金品以上の財産だと言ってもよい。 そして、この詩の言うところの、これら眼に見えない財産を護る法体制が、今だ、皆無といってよいほど、整っていない。 それより何より、法律では扱えないからこそ、モラルに訴えているものと感じている。
軽率な一言や態度が、他人を傷つけ、時として死に追いやることもある。 物理的な傷でなければ刑罰の対象でも何でもない。 「ペンは剣より強し」 というが、もし、それが本当なら、ペンで受けた痛手は物理的な痛手よりも相当大きいものに違いない。
それに、ペンも剣も使い方により、良くも悪くもなるだろう。 どちらも手にした人間は、この詩の言うモラルも手にしなければならない。 そうでなければ、悪くなることもあるということだ。 現にそれを繰り返してきた。
この詩の言うように、他の人の靴を履いて見ることがなければ、財産として守ることも、守られることもない、まさに、無法の世界を見る思いがする。
そして、この詩の思いなくして、この世界の未来はないとも言えるだろう。 さらに、願わくば、法で守られることよりも、このモラルで守られたいものである。
cf. モラルで守る
靴の思いで
私の、靴の思い出として残るのは、初めて革靴を履いたときだ。 大学の入学祝いに、父が買ってきてくれた。 もう、成長が止まっているというのに、これまでが、そのようにしていたのであろう、私には、大きめのものであった。 それでも、何故か、大人になった気分でいた。
それまでは、運動靴といって、今でいう、スニーカーを安っぽくしたようなものであった。 普段は、下駄を履いていることも多かった。 それも、個人用としては、高下駄で、歯がちびて (「ちびる」=「減る」 の方言) は、歯を入れ替えたり、鼻緒を修理したりして、正月までもたせたものだった。
また、それが出来るような構造になっていたし、今は、ずいぶん少なくなったが、下駄屋さんも、町々にあった。 そして、正月には、下着から下駄まで新品になるものだから、嬉しくて、枕元に置いて寝たこともあった。
余談のついでに、下駄の歯のちび方で面白いのは、前の歯が、早くちびる人と、私のように、後ろの歯が早くちびる人の二通りの人がいるということだ。 平均してちびる人は聞いたことがない。 そして、この 「ちびる」 という言葉も、下駄とともに消えてしまった。
そして、あの下駄の音も、聞かれなくなってしまった。 そのときには気付かなかったが、懐かしい記憶の中にあったのを、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の 「日本の面影」 の冒頭であったと思うが、違うかも知れない、それを呼び起こしてくれたことがあった。 日本の音の心象風景を見事に書き切っている。 私は、これ以上の音の表現を見たことがない。
日本の音の心象風景
記憶のままに紹介すると、ハーンが東京から赴任の旅をして、松江に到着した最初の宿でのことだ。
夜も明けやらぬ頃から、地の底からのズシンズシンという音で眼が覚めたらしい。 怖かったのかもしれない。 後で分かったが、米をつく音であった。
やがて陽がさし始めると、それとともに、パンパンという音が聞こえ始め、その方に眼をやると、湖畔に浮かぶ小船の上に立ち上がって、漁師が太陽に向かって手を合わせている。
しばらくすると、遠くから、カラコロという音が近付いてくる。 下駄を履いて足早に橋を渡ってくる女性の姿が見えた。 最初は一人だけだったが、時間が経つにつれ、その下駄の音の数も増え、音も次第に大きくなる。
また、色々な職業の人が、行き交うのであろう、物売りの声も聞こえたに違いないし、それにつれ、ざわめきも加わり、活気のある街の様相を現して来た。
日本人では、当たり前のこととして、書き留めることはしなかったであろう、音の風景がそこにあった。
もちろん、早くから、革靴を履いていた子は、特に珍しくもないが、運動靴だからといって、別に恥ずかしいものでもなかった。 その革靴であるが、それこそ、底が皮であるから、磨り減ってくるのが、以外に早い。 それを、少しでも遅らせるために、馬に蹄鉄をつけるように、靴の踵と、つま先の部分に、鉄製の鋲のようなものを打ちつけていた。
歩くと、コツコツという、あの靴音ではなく、カチャカチャという音がする。 それに、それを打ちすぎると、滑りやすくなり、危なくてしようがない。 踵部分は、靴底を、その鋲に合わせて、半月形に削り取ったりしなければならないから、個人では難しい。
ところが、つま先部分は、市販のものを自分で、いくらでも、打ちつけることが出来たから、今のタップダンス用の靴どころではなかったかも知れない。 といっても、それが、どんなものか、見たことはないが。
それでも、いくら磨り減るからといって、足の平にあたる靴底部分には、さすがに、鋲は打てなかった。 それこそ、滑ってくださいと言っているようなもので、とても歩けたものではない。
だから、その辺りから傷んでくる。 まず、底革が薄くなってくると、ひびが入り、小石などを踏むと、ついにそれが食い込んでくる。
小石が食い込んでいることは、足裏の感触で分かるが、人目を気にして、おいそれとは、取り除けない。 然るべき所にたどり着くまで、平気な顔をして歩くが、本当は良くない。
だんだん、上の方に進入してくるからだ。 ダメージを大きくするばかりだ。 靴音もおかしくなってくるが仕方がない。 カチッ カチャ とアンバランスだ。 何事にも恥ずかしい盛りの頃だった。
雨の日は、もっと悲惨だ。 水が滲みこんでくるからだ。 水溜りを避けているのに、である。 普通に、ただ道路が濡れているだけなのに、靴と足の動きが、ポンプ効果を招くのか、要らぬ水まで汲み上げるようだ。
だから、私の場合、単に足元を見るだけでなく、足裏まで見る必要があったというべきかも知れない。 いや、それ以前の問題として、足元まで見なくても、一目見れば分かると、言われるかも知れない。
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