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ドバイ Dubai 

出逢いもいろいろ


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2007/07/19
 イランから来た母娘たち ホームへ戻る

2007年 6月 14日(木)

 中欧への旅の帰途、中継地であるドバイ Dubai に立ち寄った。 (2007/06/13-16)  そこで、デザートサファリという、砂漠を四駆 (日本製) で走り回り、キャンプでダンスショウを見ながら食事すると言うアトラクションに参加した。

 そのスリリングな体験もさることながら、それを共に享受した、イランから来たという母娘たちとの出逢いが、心に残る良き思い出となっている。 




§ アラブは異国中の異国か?
 ドバイ Dubai は、アラブ首長国連邦 UAE の中の一つの首長国である 「ドバイ首長国」 の首都である。

 また、良く耳にする、アブダビは 「アブダビ首長国」 の首都であり、また、同時にアラブ首長国連邦の連邦首都でもある。

 これらの都市名は聞きなれてはいるが、連邦国家というところが、どうもピンとこない。



 UAE
the United Arab Emirates 「アラブ首長国連邦」 の略号

 〔Arab〕 アラビア半島の、ペルシャ湾の南岸に在る国
 イギリス保護領の七つの首長国が連邦を結成し、一九七一年に独立。 首都、アブダビ (Abu Dhabi)
  by Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997


 私は最早、欧米と言えども異国と言う感じがしなくなった。 どの国もそれぞれに、外見や考え方に違いがあるのだが、そこに暮らす人たちの営みに触れて見ると、違和感など全くない。

 ましてや感情や、また、その表現、主張など、言葉が分らなくて理解できない、などと言うことは全くない。



 それが、アラブの国と言う語感が、何かしら異国の象徴のような先入観が私にはあって、今までとは違う、異国中の異国に行くようで、期待が膨らむばかりであった。

 同時に、要らぬこととは思いつつ、むかし観た、「眼には眼を 歯には歯を」 という映画の、あの衝撃的なラストシーンを思い出すのである。



 

  思い出すままに 映画 「眼には眼を 歯には歯を」 について
 異国の地で医者として献身的に働いていた主人公が、本当に、たまたまのことではあったが、この日の多忙による疲れと、また、深夜だったという悪条件が重なり、急患の診察を断って他病院へ行くように紹介した。

 ところがその患者は、結局、たらい回しにされたあげく亡くなってしまったことをあとで知る。 確か、妊婦だったと思う。

 妻と生まれてくるはずの子を亡くした夫は、アラブ人だったから差別されたと思ったのだろう、その医者に復讐を企てるのである。

 しかし、暴力を振るうような素振りは決してしなくて、むしろ紳士的な態度でその主人公と向き合っているように見える。

 乞われて葬式に参列するため、車で砂漠の道を行くが、辿り着いた村も、町の様相とはことなり、初めて見る山岳民族の集落のようで、主人公がただ一人、招かれざる客として、その中に紛れ込んだような雰囲気が伝わってくる。

 何事もなく葬式も終わり、いざ帰ろうと車に乗り込むが、どうしたことかエンジンがかからない。 ここでは修理するにしても、何日も先になると言うことであった。

 近道があるので歩いても知れていると聞いて決心するが、偶然なのか故意なのか観客にも分らないまま、主人公は知らず知らずの内に砂漠へと誘い出されて行くのである。

 こちらの方がもっと近道ですよと、通りがかりの人に教えられたりして、どんどん深みにはまっていくが、これもそれも主人公が、不安を感じつつも、人の善意を信じてのことである。



 この映画は、おすすめではあるが、もう探しても無いかも知れない。

 個人的な計り知れない復讐の思いは、誰しも否定できるものではない。 一方、客観的に見れば、主人公の家庭への思いや、また、医者としての善良さや有能さなど、全てに於いて誰に劣るものでもないことも、また明らかである。

 そして、それ故に、後悔の思いと、許しを乞う思いに悩むのであるが、また、そのこと故に、復讐の罠に引き込まれて行くのである。



 復讐する側とされる側のそれぞれに、もし、罪の重さが測れるものとしたら、この映画の場合、決して同じではない。

 映画の題名の 「眼には眼を 歯には歯を」 は、ハムラビ法典 からの引用である。 そしてそれは、復讐を勧めているのではなく、むしろ、過度な復讐をしてはならないと諌めているものという。

 まさに、この映画は、その思いを映像化したものといえよう。




衝撃のラストシーン
 やっとの思いで悪意ある謀ごとから逃れることが出来た、知的で善良な主人公の医者は、それでも岩山の連なる砂漠に取り残されているという状況は、少しも変わらない。

 このまま生還するためには、孤立無援のまま、飲まず食わずで歩いて行くしか術はない。 体力もかなり消耗していた。 しかも炎天下である。

 そのとき、主人公を写していたカメラは、突然、彼の姿が次第に小さくなって見えなくなるまで、ゆっくりと上空に引いて行くのである。

 ところが、そこに映し出される光景は、カメラが引いて行けば行くほど、荒涼たる砂漠が、その広がりを増して行くばかりで、目指す町の姿は見えなかった。 生還できる訳がないと思い知らされて映画は終わるのである。





 そこには、お互いの文化の違いや、また、その認識不足が招きかねない、他民族との接触や共存の危うさが窺い知れるのである。

 などと、映画のような一種の謎めいた偏見を抱いたままドバイに降り立ったが、男性の白い民族衣装も良く似合って素敵であるし、また、人情も、食事も、これまで訪れた国々と同様に、違和感は全く感じられなかった。

 最早、私にとってアラブも異国ではなくなった。 ただ、暑さ湿度ともに、日本の夏をはるかに上回るものであった。 夏好きの私にとっては、予想外の喜びと言えようか!?







§ デザートサファリ Desert Safari  2007/06/13 のこと
 せっかく、ドバイに立ち寄るのであるから砂漠も見てみたいと思って、デザートサファリ を申し込んだ。 そのようなアトラクションがあるというのを、旅の本を見て知っていたからである。



 サファリ safari

1 (アフリカでの) 狩猟 [探検] 旅行、サファリ
 go on safari サファリに出かける
2 狩猟 [探検] 隊


 《口語》 冒険旅行
  a sightseeing safari 観光冒険旅行

【語源】
 アラビア語 「旅行」 の意
  by New College English-Japanese Dictionary, 6th edition (C) Kenkyusha Ltd. 1967,1994,1998


 そのデザートサファリにも、砂漠の中で一泊するものとか、色々なタイプのものがあるようである。

 どれも面白そうではあったが、一泊体験するほどの時間的な余裕も無かったので、四駆で走り回る半日コースを申し込んだ。

 砂漠をクルーズすると言うのは、レンタカーで出来るものではないだろうし、例え、四駆で砂丘を上り下り出来たとしても、方向を見失ったら、それこそ命の保証はない。

 方向音痴の私なら、前述の映画のような結末になること請け合いである。







§§ 出発は1時間遅れ? 2007/06/14 のこと
 午後4時に迎えに来るからロビーで待てとのことであった。 それが4時を過ぎてもその気配がない。 フロントで予約を取ってもらったが、現金先払いである。

 クレジットカードは駄目だと言うし、領収書も貰っていないから、少々心配になってきた。 しかし、そこはそれ、信じることこそ友好の証しであると思うから黙って待っていた。

 帰りの飛行場で気がついたのだが、ドバイに到着したときに、時差の修正を間違って、丁度1時間進めた状態になっていたようである。

 ドバイ滞在中は、その時計で何ごとも進行していた。 8時の朝食にしても、一番乗りであった。 私たちの食事が終わる頃になって、ぼつぼつ人が食べに来る。

 それも、お国柄と勝手に受け取っていたから、時計の間違いに気付く訳がない。 今はそのことを知らないのであった。




 午後5時 (実際には約束どおりの4時) 近くになって、やっと迎えが来た。 がっしりとした体格の若者である。 玄関に停めてある四駆に乗り込むと直ぐに走り出した。

 直ぐに走り出したが、事務所らしきところに停まったと思ったら、姿を消したまま、中々出てこない。 ずいぶん待たされたが、今度は、同年輩と思われる男と一緒に現れて、その男は助手席に乗り込んできた。 そして当然のように、また、ごちゃごちゃと走り出した。

 ごちゃごちゃと言ったのは、一方通行やら、また、渋滞にぶつかると、ルート変更を繰り繰り返したり、地元のはずなのに知らぬ道に迷い込んだりして引き返したりするものだから、乗っている私たちにしてみれば、迷路の中を進むような感じであったからである。


 彼らは、何かと話しかけてきたりして、非常に友好的な応対振りであったが、こちらとしては、要らぬことに時間が過ぎていくばかりで気が焦るのである。 何しろ、出発が1時間も遅れている (と思っていた) 上に、このごちゃごちゃである。

 私は、ぶすっとしていたかもしれない。 お客をピックアップするために回っていることは承知であるが、それなら手順良く回れよ、と言いたい思いでいたことは確かである。




 街中のとあるホテルの前で、また停まって、二人は姿を消した。 しばらくして、また姿を現したが、携帯電話をかけながらであり、お客の姿はなかった。 遊びに出たは良いが、ホテルに戻るのが遅れているようである。

 『バス旅行で、こんなはた迷惑な奴 一人や二人おるやろ!』 『おるおる!』 と嘉門達夫ではないが歌いたくなると言うものだ。


 道ずれの良し悪しは、旅の良し悪しにも関わるものだから、未だ見ぬ彼らとの出逢いに不安がつのるのであった。 どうやら、遊び先のショッピングセンターまで迎えに走るようである。 やれやれ。










§§ イランから来た母と二人娘
 乗り込んできたのは母親と、中学生高学年とおぼしき娘さんと小学生高学年とおぼしき娘さんの二人であった。 私は運転手の後ろの席、家内が真ん中、母親が助手席の後の席で、娘さんたち二人は、後部座席である。

 これまでの私の不満は吹き飛んだ。 私は外国の子供と話す機会がほとんどなかったから、嬉しかったのである。 また、同乗者によって気分が変わるのは仕方のないことであろう。

 それに、ホテルからホテルへと、お客をピックアップして回る車は、往々にして、中継地までであり、お客はそこで、それぞれのアトラクション別に仕立てた車に乗り換えることが多い。

 ところが今回は、そのまままっしぐら、砂漠に向かっている様子である。 車もこれ以上は乗れないから、運転手、助手を含めた一つの運命共同体として、行動を共にするのであり、また、そのクルーに対する不満は全くないということに、幸せを感じたのである。



 大げさのようであるが、想像以上にスリリングな体験をした今だからこそ、そのように思うのである。 また、その気分は運転手たちも同じであろう、話しかけてきたり、交わす言葉にも嬉しそうな様子が現れていた。 少女だけが持つ、不思議な魔法の力である。


  「少女」 なるものの輪郭
既に幼い子供ではなく、
大人の寸前に辿り着いているのだが、
ただし、子供時代の輝きにいまだ全身を包まれて、
移り行く時の狭間に滞在するつかの間の存在である。
本田和子著 お茶の水女子大学教授 NHK人間大学 1993年より引用




 母親は、自分たちがイランから来たこと、世界をいろいろ旅をしてきたが、アメリカやらイタリアなど、ビザの取得や入国に際しての厳しいチェックなど、大変なところが多いなどと、流暢な英語で語りかけてきた。

 身なりや話題でイスラムを感じさせるところは一つも無かった。 イタリア人とかフランス人と言われても、私は気がつかないであろう。

 それと同じように、助手の人は、私たちが日本人なのか、中国人なのか、それとも韓国人なのか、区別がつかないという。 それはそうであろう、それと同じことが私たちの側からも言えることであると返したりしたものだった。




§§ 砂漠もいろいろ
 車は砂漠を目指しているのだが、聞くところによるとドバイのものはサハラ砂漠のような砂一色の世界ではなく、岩や潅木もある荒野といったものである。

 それでも1時間以上も走っていると、その荒野も砂の量が多くなってきた。 しかし、舗装された道路が続いており、ときおり工場らしき建物などが現れて、一向に砂の山は現れてこないのであった。

 すると車は車道を外れてその荒野に分け入った。 進むうちに砂山が所々に現れて、車が停まったところには既に十数台の同型の四駆が集合するかのようにあった。



Safari1
『ドバイの砂丘』 デザートサファリ ドバイ UAE
2007/06/14 Photo by Kohyuh


 目の前には大きな砂丘があって、私たちの車は、その四駆の集団の中には入らず、その途中まで登ったところで停車した。 そばには大きな木があった。 車から下りても良いとのことだった。

 少女たち二人は、砂山を駆け下りたり、また、登って来たりしてはしゃいでいた。 所々に潅木やブッシュが見える。 鳥が飛ぶのが見え、近くの木に止った。

 眼が慣れてくると、意外に多いことが分り、カメラを出して鳥を追うが、いつ出発するやも知れず、身が入らないし、足を取られて歩き難いし、であるから成果は期待できないものであった。



 直ぐに気がついたが、デザートサファリを催行する会社も、大から中小まで色々あるのであろう。 それは四駆の集団の規模で分かる。 私たちの近くにはポツリポツリとあっただけであるから、小企業の部類のものであろう。

 中小企業だからといって、悪いものとは言えない。 結果から考えても、サービス満点であった。 見ると、車は数台ずつ砂丘に立ち入って行く様子である。 順番待ちをしていたのであった。




§§ まるで、ジェットコースターかサーフィンか
 いよいよ順番が来て車に乗り込んだ。 2台一組で出発した。 先頭車が砂丘を登って行った。 私たちの車は、その後を追うようについて行った。


 バギー buggy

 1 《英》 軽装二輪馬車
 2 《米》 軽装四輪馬車

 《米》 うば車、ベビーカー
  by Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997


 砂丘を登りきると目の前にサハラ砂漠のような光景があった。 といっても写真で見ただけであるが、実物を見た人には似て非なるものであったかも知れない。 箱庭みたいなものかもしれない。

 それでもこのデザートサファリにとっては、そんなことはどうでも良い。 砂漠をサーキットに見立てて、まるでジムカーナの競技のように、タイムを競い、テクニックを競うようにして走ることを楽しむものであった。 バギーカーで走る者も見た。







Safari3
『夕日の中のバギー』 デザートサファリ ドバイ UAE
2007/06/14 Photo by Kohyuh




 登れば下りがあるが、それが並大抵ではない、45度はあるだろうか。 乗って見る限り、まるでジェットコースターで頂上から落ちていくようであった。

 ジェットコースター好きの私にとっては、それは屁でもない。 私は、前後の傾きに対する恐怖感には耐性がついているのである。 ドライバーにとっても初級のテクニックに違いない。

 さすがに怖いな、危ないな、と思ったのは、トラバース traverse (斜面を横切る) するときである。 45度の斜面をただ横切っていては、たちまち横転するだろう。

 ドライバーは、その横転直前の傾きを感じ取るや、ハンドル操作と車輪の回転数を上げて、後輪を横滑りさせるのである。 そうすることによって、車首の向きが上方に修正され、横転がまぬがれることになる。

 ただやり過ぎると斜面を横切ることが出来ない、登ってしまうことになるからだ。 だからドライバーはハンドル操作とアクセル操作を引っ切り無しに繰り返し、助手は横転しないように体重の移動で補っていた。

 その度に砂煙が舞い上がり、ウィンドウを洗い流すように降りかかってくる。 傍で見ていたとすれば、まるでサーフィンか、スキーのスラロームを見るようであったろう。

 車の中では、わぁーわぁーきゃーきゃーの叫び声が止むことがない。 というより、騒げば騒ぐほど、調子に乗って、これでもか、これでもかと、たたみかけるように危険なコースを選んで行くような気がしてならなかったから、危なくてしようがない。

 また、実際に、ドライバーと助手の二人は、ときに、顔を見合わせ、手を上げて互いの手のひらをパチンと合わせて、「やったね」 という仕草をしていた。

 面白いことに、少女たちの歓声だけを聞いていると、日本人と区別がつかない。 きゃー、こわいー のように聞こえたものだった。




§§ 砂漠の夕日
 もういいからやめて欲しいと思う頃になって、2台の車は砂丘の頂上で寄り添うようにして停まった。 全員が砂丘に降り立った。 陽もだいぶ落ち始めていた。 見渡すかぎりの砂山の連続で、砂漠の真ん中にいるようであった。


Safari2
『砂丘の夕日』 デザートサファリ ドバイ UAE
2007/06/14 Photo by Kohyuh



 実際、ここからの夕日は素晴らしいが、それまでここに居ることはできないという。 そんな話をしていると、私の後ろで、誰かごそごそしているな、と気がついた。 振り返ると、白い民族衣装を着けた少し年配の先頭車の助手の男が落とし穴を掘っていたようである。

 もちろん冗談のつもりであるから、大袈裟に驚いて見せるのが礼儀だろう。 みんなで大笑いしたものだった。 思い返せば、この人がリーダーではなかったかと思う。

 私たちのドライバーはまだ若く、何か約束事があるかのように、決して先頭に立つことはなかった。 あくまで先頭車の辿ったコースを行った。

 また、ペアで行動するのには訳がある。 いつ事故が起こるか分からない。 単独行動では、そのとき助けようにも助けられないからである。



 ここからキャンプに向かうようである。 砂丘のアップダウンはあるが、もう無茶はしない。 ヤギかヒツジか私は見分けがつかないが、その一群が眼に入った。 また、野生らしきラクダの一群も遠望できた。

 彼らは私たちに気付いて、移動したりするから野生のようでもあるが、一方で、出来すぎているような気もする。 単に放し飼いにして、砂漠の雰囲気を演出しているに違いない、と無粋なことを考えてしまう。








§§ キャンプにて
 私たちがキャンプ場に到着したときには、先着の車が多くさん並んでいた。 まるで四駆の品評会のようであるが、全て日本製 (トヨタ ランドクルーザ) であった。




§§§ 素晴らしい日本製の車
 デザートサファリを体験して、四駆の能力がこれほどまでに高かったのか、という思いを新たにした。 しかし、日本ではその能力をフル活用して遊ぶような場所はないのではなかろうか。

 ところが、石油のお陰で一躍裕福になったここのドバイの若者たちは、仕事は外国人労働者に任せ、自分たちは砂漠で遊びまわっているという。

 確かに面白かろうが、憂国の士ならずとも、これではドバイの将来を心配する。 石油がある内に、何とかシンガポールのような世界の経済活動の拠点となる国を目指していると聞くからである。



 四駆の能力の高さについては、以前、バルセロナでモーターショウに偶然出合ったとき、トヨタが四駆の実演をしていたのを見て驚いたことがあった。

 会場に高さが10メートルほどある大きなアーチを作り、お客を乗せて、上って下りて見せていた。 傾斜が45度ほどである上に、見るからに幅も狭い路を上っていくのである。

 また、その傾斜の途中で停車して見せたりするものだから、見ているだけでも怖い思いをしたものだった。 それを試乗希望者が列をなしていたから気が知れない。





 キャンプの駐車場の中で、一台だけではあったが、バンパーが無残にも壊れて、ぶら下るように、かろうじて付いていたものがあった。 やはり事故が起こっていたのである。

 これは、日本に帰ってきてから分ったことであるが、このデザートサファリには年齢制限があって、65歳以上は参加できないことになっていたようである。

 ならば私は参加する資格が無かったわけであるが、チェックが甘いというか、その気がないのかも知れない、調べることもしなかった。

 もし、事故が起こったとしたらどうなるのだろう。 シートベルトの装着は必ず点検していたから、死亡事故は先ずないと思うが、骨粗しょう症の人ならば、腰や腕や足の骨折は十分に予想される。

 これから挑戦しようと思われる方は、規定どおりに従って頂きたい。 例え、チェックが甘くてもご自身の判断で。





§§§ 付録のアトラクション
 キャンプ場には、簡単な杭と板塀で囲まれて、正面に入り口を示す大きな門柱があって、他とは異なる境界を示すところがある。 いわば内陣というべきものであろうか。

席は座卓式
ダンスショウの席は座卓式
デザートサファリ ドバイ UAE
2007/06/14 Photo by Kohyuh

 その内陣の中には、今はテントは張られていなかったが、大きなテント用の骨組みだけが見え、それは砂地の上に建てられていた。

 また、その下には絨毯が敷き詰められ、また、一段高くなっており、横から見れば四角い大きな土俵のようであったが、そこが舞台のようである。

 そして、それを囲むように、ぐるりと座卓が並べられてあった。 その座卓も砂地の上に敷かれた絨毯の上に置かれてある。




 席は絨毯の上に直接座るのではなく堅めのクッションに腰を下ろせるようになっていた。 クッションといっても堅さ加減や軽々しくなかったところを見ると、中身は砂かもしれない。

 また、内陣の内側の塀沿いには、屋台や土産物店などが並んでいるのが見える。 食べものや飲物は、その屋台から自由に貰えるもので、もちろん無料というか、デザートサファリの料金に含まれているものである。



 その内陣の外側に、駐車場やトイレなどの設備が整えられてあり、その一角に、ラクダがいる小さな広場があった。 ラクダは腹ばいになって、2頭が縦に繋がれて座っており、そばにラクダ使いのおじさんが民族衣装を着けて立っていた。







§§§§ ラクダ乗り
 そのラクダは無料だから乗れ乗れと、ドライバーたちが勧めてくれるが、気恥ずかしさが先に立ち、どうしても乗れなかった。 ところが母親と下の娘が手を上げた。 そして、母親は上の娘も誘うが、彼女はどうしても嫌だという風に断っていた。



 当のラクダは膝を折って腹ばいになってくつろいでいる。 背には絨毯様のものがかけられて、背もたれと取っ手が付いた小さな鞍が2組、設けられてあり、乗り易くはなっている。 ヒトコブラクダ Arabian camel と思うが、それらの装備に隠れて、良く分からない。

 下の娘は片足を上げて、またがろうとするのだが、ラクダが腹ばい状態とは言え、コブのせいであろう、足が届かない。 私は止めておいてよかった。

 何度も失敗しては、介添えもあって、ようやく乗ることができた。 1頭に2人乗れるようである。

 ラクダは一度には立ち上がれないので、正確な順番は忘れたが、先ず後足の膝を立てる。 膝立ちといってもラクダの足は長いから、予想外に前に大きく傾くので、乗客は身体を後に反らさざるを得ない。

 次に、前足の膝を立てるが、身体を後方に反らせて踏ん張っていたものだから、前につんのめるような形になる。 そこへ続けて、後ろ足を完全に伸ばすと、ラクダの尻は大きく持ち上がるから、また身体を反らさなければならない。

 そのまま耐えていると、次に前足を伸ばすものだから、また、つんのめるようになる。 その度に娘が大きな叫び声を上げていた。

 このラクダの習性を知らないで乗ると必ず落ちると聞いていたから、私は心配していたのだが、何とか乗れたようだ。 すると、ラクダ使いのおじさんがラクダを引いて歩いてくれるという趣向である。

 また、内陣に入ると、民族衣装を着せてくれて写真を撮るというコーナーもあって、これも勧められたが、気恥ずかしいから遠慮した。 イランの親子もこれには手を上げなかった。








§§§§ ヘンナ・ペインティング Henna Painting

 ヘンナ henna
Ⅰ 〔植〕 ヘンナ、シコウカ
   《エジプトなどに産し、花は白く芳香があり、その葉から染料を製する》
Ⅱ ヘンナ染料 《つめ・頭髪・ひげなどを赤褐色に染める》
  by New College English-Japanese Dictionary, 6th edition (C) Kenkyusha Ltd. 1967,1994,1998>
 続いて、ヘンナ・ペインティングのコーナーへ誘われた。

 これも内陣にある小屋がけに民族衣装を着けた若い女性が座っており、こげ茶色をしたペースト状のヘンナという植物の染料が入ったチューブを搾り出しながら、好みの図柄を描いてもらうものである。



 それを1時間ほど乾かすと、拭き取っても刺青のようにその図柄が残るというものである。 一週間ほど持つらしくて、イランでもポピュラーなファッションということであった。











Safari4_henna
ヘンナ・ペインティング Henna Painting  
2007/06/14 Photo by Kohyuh

 娘さんたちは手の甲に花の絵を描いてもらっていた。

 私は、手の甲は、一番目立ち易いという点では効果的であるが、まだ乾かぬ内に、何かの拍子に触ってしまいそうであると深読みした。

 そこで、袖を捲り上げて、手首と肘の間 (一の腕というのだろうか?) に書いてもらった次第である。

 鳥の絵を頼んだら、それは有料だと言うので、好みではないがラクダの図柄にした。






 母親の方は二の腕に書いてもらっていた。 確かに触り難いという点ではいいかも知れないが、捲り上げている袖が緩み易いと踏んだ。

 そして、やはり私の選択した一の腕がベストであろうと思った。 私は内心、「どやさ」 という気分で、それを確信したのであった。

 それが、最悪の事態に展開していくとは、このときはまだ知らない。










§§§ ダンスショウの席にて
 このような付録のアトラクションがあることを私たちは知らなかったが、イランの母娘たちは良く知っていた。 教えて貰わなければ分らなかったことである。

 デザートサファリでなくとも、申し込めばプログラムなどくれるものである。 私たちはホテルのフロントで申し込んだからかも知れない、何も貰っていないのである。



 カバブ kebab, kebob
カバブ 《肉と野菜の串焼き料理》
【語源】
アラビア語 「あぶり肉」 の意
  by Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997



 それに引き替え、彼女らは何でも良く知っていた。 頃合を見て、ダンスショウの席に移動することになった。 小さな座卓を囲んで座った。 その下には絨毯が敷かれていた。

 この内陣の中には屋台のようなものがあって、飲物やスナックやカバブやらをセルフサービスで取りにいって、席で食べるという趣向である。










§§§§ 写真の売り込み
 私一人、留守番をしていたら上の娘が帰ってきた。 手ぶらであった。 サファリの出発前に写真を撮らせてくれと現れた女性が写真を売りに来ているらしいと教えに来てくれたようである。 それで、『あなたはどうするの?』 と聞いてきた。

 考えてみれば、こういうアトラクションの常套手段であったから、撮りに来たときに随分お断りしたのだが、「どうか遠慮なく」 というので無料で配布してくれるものと考えていたのが甘かった。

 これまで経験した、こうした写真は、全てスナップ写真であり、それも自分では撮れないようなものばかりで、捨てられるにはもったいないと思うものであった。

 それが今回は、車を背景にした記念写真である。 そして、それなら私たちも持っている。 欲しくないと答えたが、彼女の意見は聞かなかった。






 話のきっかけとしては絶好の機会であるから、『どのようなを旅してきたの?』 と問いかけた。 すると、『私たちは買い物や美味しい食べもののために旅行しているのではなく、文化や歴史や見聞を広めるためです』 と言っていた。 私の旅に対する思いに通じるところがある。

 そういえば、ドバイにはとてつもない高級リゾートホテルが多いのであるが、そういうところには泊まっていなかった。

 むかし、西欧の良家の子息令嬢には、旅をさせていると聴いていたが、まさに、そのようである。 現在では、普通の慣習になっているのであろうか。

 決して贅沢な旅ではなさそうであるが、実際に世界を見てきており、また、このイランの母娘とも英語が堪能であったことを考えると、やはり普通の人ではないかも知れない。






 そんな会話があったことも忘れて話が弾んだが、面白いと思ったのは、家内が チュン の写真を見せたりしていたらしく、上の娘の名前が "ツバメ"という意味であるという。

 そこからまた、それぞれの名前の由来話になり、下の娘は、"rising sun" という意味になるという話である。 そして、家内が "bow" で、私は "growing widly" かな? といって紹介した。

 すると、ツバメの漢字を教えて欲しいと頼まれた。 そして、中国人に書いて貰ったというメモ書を見せてくれた。 そこに書いてあったものは、彼女の名前の音読みを、そのまま漢字に置き換えただけのものであった。

 例えば、ロバートならば、「路馬亜斗」 といった具合にである。 それも簡体語で書かれていたから良く分からなかった。

 私は、「燕」 と書いて見せたかったし、それも、最初は象形文字として作られて、それが変遷していく過程を教えてあげたかったのであるが、どうしても思い出せないでいた。 今もって残念である。







 家内が折り紙講座をスタートした頃になって、例の写真を売りにきた。 それもA4版の大きなものであったし、高かったし、だいいち持って帰りにくいので私は買わなかった。

 下の娘の方は欲しそうにしていたが、上の娘が言葉をかけて、それを制止した。 私の意見を聞きにきたのは、同じ心境だったからであろう。




 彼女たちが今日遊びに行っていたショッピングセンターには、スキー場があったとか、また、他のショッピングセンターには、ラスベガスにあるように、アーケードの天井をスクリーンに見立てて映像を映し出す、大がかりな仕掛けがあったとか、カメラの画像を見せて、説明してくれた。 動画もあった。

 私たちは食事も忘れておしゃべりしていたが、家内が何か取ってくるわと、また、席を立ったが、母親はカバブが出来るのは9時からですよと教えてくれた。 しかし、すでに声の届くところではなかった。

 見ると彼女たちは何も持って来ていない。 カバブを待っていたのであろう。 それでも家内は何やら持って帰ってきた。 私の時計は9時 (実際には8時) を過ぎていたのであるがやはりカバブはなかったようである。



 その中に、いろんな具が入ったオムレツか大きな餃子のようなものがあった。 早速、ナイフとフォークで切り出して、食べようと口元に運んだら、ポトリと落としてしまった。

 あわてて膝元を手で探っていたのだが、暗くて眼には頼れないと、膝を立てたり、いろいろ試行錯誤していたら、はたと気がついた。

 ヘンナ・ペインティングをしていたのである。 しかし、時すでに遅しであった。 腕のラクダの絵は無残な姿になっていた。

 それだけではない、ズボンの股のところにウンチのようなものがべったり付いていた。 少女たちの前で恥ずかしいが仕方がない。

 ティッシュを出して拭き取るも、腕のものは何とか消えたが、ズボンの方は効果がない、跡形が大きくなるばかりである。

 この騒ぎの中で、母親が上の娘の手を触ってしまったらしく、『お母さん、もう・・・』 と娘が叫んだ。 本当にそのように聞こえた。 指の部分がダメージを受けていた。

 私のダメージは90パーセント以上であったが、彼女は5パーセント程度であった。 結論的に言うと、二の腕にしてもらうのが無難であろうと考え直した次第である。





 この騒ぎの後、カバブの出来上がり具合が分ったようである。 どうも煙の立ち方から分かるらしいが、みなさん揃って持って帰ってきた。

 それを食べる間もなく話が弾んでいる内に、ショウが始まった。 一人の女性ダンサーが登場し、音楽に合わせて踊り出した。 残念ながら、音楽は生演奏ではなかった。

 また、ベリーダンスではあったが、私が勝手に想像していたほど、過激なものではなく、少女たちも手拍子を送っていた。


 何曲か踊り終えると、客席を指差して手招きして回った。 舞台の四方の端には、土俵のように、ぐるりとクッションのように座れる場所が設けられてあった。

 私たちも手招きされたので、2人の娘さんたちと一緒に舞台に上がって、その土俵に腰を掛けた。 家内と母親は残った。



 ダンサーはまた、何曲か踊って見せたが、さすがに間近に見るので迫力があった。 その息づかいまで見て取れる。

 次の音楽が鳴り出すと、舞台の私たちをぐるりと見渡して、とある一人の男の前に立ち進み、手を引いて舞台中央へ引き出した。 真似て踊ってみよとゼスチャーで促して、踊り出した。


 さすがに見る眼がある。 彼は、ひょうきんな踊りで満場の笑いを誘っていた。 もし、私が選ばれていたら、ぶち壊しであったろう。 このようにして、また、数人を引っ張り出して踊って見せた。 みなさん楽しそうである。



 私は目を合わせないようにして難をまぬがれたが、今度は舞台を回って次から次へと引っ張り出されていった。 音楽は鳴りっ放しで、各自が踊り出していた。

 遂に、私たちの前に来て、手招きされた。 二人の娘も立ち上がった。 やむなし。 私も立ち上がった。 ズボンにはウンチ模様が付いている。

 ダンサーが私の前に進み出て腰を振って見せた。 やむなし。 私も手を広げて、合わせて腰を振る。 何と、それは快感であった。


 舞台では、ところ狭しと、みんなが自由に踊っていた。 私は、むかし、ゴーゴー喫茶が流行った頃の踊り方だが、仕方がない。 といっても、知らない人も多かろう。

 全員でしばらく踊って、ダンスショウは終わった。 母親が 『上手だったわ』 と褒めてくれた。





 気がつくとほとんど何も食べていなかった。 上の子が、『すみません。 おしゃべりし過ぎて、食事が出来なかったでしょう』 と気遣ってくれた。

 しばらくして、ドライバーと助手の二人が現れた。 もう、11時 (実際には10時) 近い。 ピックアップのときの1時間遅れは、それ以上に、ここで穴埋めされたんだと思っていた。



 帰りは夜道の砂丘の中を走ったが、直ぐに舗装道路に入り、彼女たちのホテルに先ず立ち寄って見送った。 必ずメールを送るからねと、お互いに声を掛け合って別れた。

 なのに帰国後しばらくして、メールを送ったのだが、未だ応答がない。 イランは、海外のインターネットを遮断したとか、ニュースで見たように記憶しているが、その影響だろうか。 はたまた、少女たる故の、気まぐれだったのか。

 いろんなことを質問されて、それに対する回答が思うようにできないでいたし、また、伝えたいことも多くさんあるのに・・・

 いづれにせよ、国は違っても、そこに暮らす人たちの思いに違いなどある訳がない。

 当然のことであるが、また、どの国でもそうであるが、外観や風俗は異なっていても、想像ではなく、実際に接してみれば、違和感など全く感じられなくなるものである。






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