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海外ドライブ 連載19

海外ドライブ


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2006/05/11
 海外ドライブ旅行のすすめ (19) 戻る次へ


5 あれこれよもやま話
 ドライブをしていると予期せぬことも起きたりする。 失敗もする。 それらを思い出すままに綴ってみようと思う。 何かの足しになるものか、と聞かれると答えられない。

 もし、それを期待されているのなら、ここは読み飛ばしていただきたい。 何の足しにもならないかも知れない。 それでもいいから読んでみたい、と思われる方にはお勧めする。 あなたが海外ドライブに挑戦される際、少しはお役に立てるかも知れない。






コメットハンター
 こんな言い方をするのも、私が学生だった頃、感銘を受けた新聞記事があり、そのフレーズを借用したものであるからだ。 朝日新聞の三面記事の片隅に 「青えんぴつ」 という小さなコラムがあった。

 丁度、池谷・関彗星が発見された頃である。 池谷氏か関氏か忘れてしまったが、彗星発見にまつわる逸話であった。 両氏は、今も何らかの形で星の世界とかかわりを持っていて、コメットハンター達の憧れの存在であると聞く。






 コメットハンター comet hunter
 コメットハンターは、彗星を探す人という意味である。 新しい彗星が発見された場合、その発見者の名前を冠することが国際的な決まりになっていて、世界の記録として天文学会に、永久に残されるという栄誉が与えられる。

 ハレー彗星が平均76年毎にしか現れないのと同じように、彗星が現れる周期は極めて長い。 また、現れても、再び現れることもない彗星もある。 だから、まだまだ発見されていない彗星は、数知れずあろうというものだ。

 さらに、とてもいいことだと思うのは、この彗星探しは、アマチュアに委ねられていることである。 何ごとも望遠鏡とか機材がものを言う天文の世界であるから、普通ならアマチュアは太刀打ちできるものではない。








好きなればこそ
 彗星探しは容易ではない。 とにかく夜でないと星は見えない。 その人も仕事のかたわら、趣味として彗星探しをしていた。 貴重な睡眠の時間を割いての作業である。 夏も冬も区別がない。 世界のアマチュア天文家との競争である。 そして、最大の悩みは、その様な努力を重ねても発見できる保証は何もないことであろうか。

 彼は、10年ほど探し続けてきたが成果がなかった。 このまま続けようか、どうしようか悩んでいた。 そして、踏ん切りをつけたかったのであろう、思い切って東京天文台長に心境を綴ったハガキを送ったそうである。 もちろん、返事が来るとは思ってもいない。 また、返事を期待して送ったものでもなかった。

 その返事が来たのである。
 『何が何でも見つけたいと思うのなら止めた方がいいでしょう。 何故なら、見つけられないかも知れないから。

 見つけられなくてもいい、そこに魅力を感じることができるのなら、続けた方がいいでしょう。 何故なら、見つけることが出来るかも知れないから』
 と書かれてあった。



 そして、ついに彼の夢がかなったのは、その後間もない頃であった。 池谷さんと関さんが同時に発見者となった、池谷・関彗星である。 そして、そのハガキは、黄色く色褪せた今も、彼の机の前に貼られてあるという。



【補注】
 ただ、残念なことだが、このような彗星探しができた時代は終わった。 今やコンピュータで彗星探しができるようになったのだ。 もはや資金力の問題に変わった。

 cf. コンピュータの時代






コンピュータの時代
 ここで、動く、動かない、というのは、生きものが持つ時間的な感覚に過ぎない。 せいぜい一日前の画像データと比較すればよいだろう。

 ただ、この情報処理には、過去の画像データと、現在の画像データの差分を抽出する能力が必要である。


 これは彗星等の発見にコンピューターが導入されている技術と同じで、自動で全天を撮影し、過去のデーターとの差分を自動で抽出するものだ。

 もちろん、天文の時間感覚は、生きものの時間感覚より、そのスパンは、はるかに長かろう。 それでも、考え方は、『トビの驚くべき能力』 と同じだ。 研究者は、その結果に注目するだけでよい。

 差分が見つかれば自動的に報告してくれる筈である。 コンピューターの前に張り付いている必要もなかろう。

・・・ リンク不具合につき同文追加 2015/10/15










5.1 道は迷うもの
 ドライブ旅行は、どこに行くにしても、普通、初めて訪れるところであろう。 そこがまた魅力というものである。 だから、例え同じところへ行くにしてもルートを変えたりもする。 わざわざ迷いたいがために行くようなものである。 すんなり行きたいのなら、こんなことはしないものだ。



 それが海外ともなれば、隣町へ行くにしても初めて訪れることになるから、このように、わざわざ手の込んだ真似をしなくても、効果は同じで、期待通りに迷わせてくれるから有り難い。 海外ドライブとはそんなものだ。

 隣町に行くどころか、今いる街から外に出ることすら難しいのである。 そして、一度方向感覚を見失うと、いくら立派な地図を持っていようと関係ない、全く役に立たなくなる。 そのことを思い知らされるであろう。

 地図の見ようがないのである。 地図のどこを見れば良いのかすら分からない。 この辺りであろうと、大きく円で囲むことは出来るが、それが八幡市ぐらいの大きさともなれば対処のしようがない。

 道に迷うことは、何もドライブに限らない。 旅先の街中で迷うことも多いから、皆さんも経験があろうし、地図が役に立たなくなることも分かっていただけると思う。 また、生半可な地図を持っていたりすると、余計に迷うこになりかねない。 このことも、きっと経験済みに違いない。








§ 道は人に聞くのがよい
 道に迷ったときにはどうするか。 色々と選択肢がある。 目標となるべき交通標識や建物や幹線道路や川などを見つけ出すまで、適当に走り回るのも一つの方法である。 だいたい一二時間も走り回れば目的が達せられる。 私たちも最初はこの選択肢を使った。




 最初は、外国人に話しかけること自体に決心がつかず、何かと自力で頑張ろうとしたりする。 また、人に聞きたくても、日本のように、外でウロウロしている人が少ない。 人影が街中とは言え、見えないことが多いのはどういうことだろう。 子供の姿など、まず見かけることはない。

 しかし、この方法は時間的ロスがはなはだしい。 走り回って居場所が分かったとしても、とんでもない反対方向であったりするから、取り返しの時間もかかるというものだ。

 やはり、人に聞くのが良いだろう。 喫茶店などが見つかれば、休憩は出来るし、道も聞けるとなれば一挙両得ではないか。 誰でもそう思い付くだろうし、実際、私たちの次の手段がそうであった。








§§ 聞けば分かるものでもない (1)
 ところが必ずしも、聞けば分かるものでもない、かなり賭けのようなところがある。 ザルツブルグに程近いドイツの国境付近で道に迷ったことがある。 小さな村に迷い込んで行き詰った。 どう見ても考えても、おかしい、予定のルートを外していると感じたのである。

 幸運なことに、近くに鉄道が走っており、さらに小さな駅舎まであったし、駐車スペースもあったから、迷わずここで、道を聞くことにした。 このように道を確認する目標物があることは非常に有利である。

 ハーツで貰った全国図では、駅名までは乗っていない。 これから先のこともあり、もう少し詳しい地図を買うことにした。 丁度、駅の売店に売っていた。

 ここで、道を尋ねても良かったのである。 ところが、この向かいに喫茶店があったから、そこで休みながら、ゆっくり、ルートの立て直しを図ろうとしたのは人情というものであろう。




地図は記号の世界
 若い女の子が店番をしていた。 喫茶店ではなかったが、パンや駄菓子も置いてあったから、それらを買って道を聞いて見た。 田舎町のローカル駅とは言え、中心街であろう。

 この店は、この地図の中では何処になるのかと、買ったばかりの地図を広げて教えを乞うた。 ところが、それが良く分からないという素振りである。 しばらく、あれこれ眺めているが、結論はでなかった。 多分、あの駅が、これであろうと地図上で指差すが、結果はおなじであった。

 その鉄道を挟んで、二者択一の問題であるのに、それも目の前にある店なのに分からないというのはどういうことだろう。 思うに、地図が読めなかったに違いない。 そして、このことは不思議でも何でもないかも知れない。


 見慣れている人には何でもないようでいて、地図は約束事が多い記号の世界でもある。 その約束事を知らなければ、それこそ西も東も分からない筈である。 ましてや、小さな村では、地図を見ることなど皆無であろう。 だから、彼女が地図の中で迷い児になったのも仕方がない。




 このようにして、彼女と一緒に地図を眺めていると、私の方が先に現在地を突き止めた。 この場合、出費はしたわ、休めないわ、時間は食ったわ、踏んだり蹴ったりだと思うだろうが、私は楽しかった。

 大体、ドライブ旅行の欠点は、少なくとも移動中は、現地の人と話す機会が少ないことである。 それが、若い、お店の看板娘と額を突き合わせてのやり取りであるから、楽しくない訳がない。










§§ 聞けば分かるものでもない (2)
 どこの街だったか忘れたが、というより度々経験したことであるから、どの街でも良いのであるが、向こうの人は道を尋ねられた場合、知らないという回答は、絶対と言っていいほど用意していないということである。

 地図を示して道を聞くと、くるくる回して見たりした後、左へ行けばよいと、私の方向感覚と異なる道を教えてくれた。 本来なら、教えられたとおりの道を歩くのであるが、そこは既に調査済みであったから、その場は適当にやり過ごした。 そしてまた、場所を変えて、別の人に同じように聞いてみた。 すると、また、別の方向を指し示したりする。

 これは、いったいどういうことであろうか。 地図を読めないということもあるかも知れない。 また、その場所を知らないといこともあるかも知れない。 それならばそうと言えばよいのに、決して知らないとは言わないから迷惑することがある。



事実か推測か
 話す本人は推測の話しと承知しているのであろうが、聞く方はそれを事実として聞いてしまうことが多い。 会社では、事実か推測かを明確に区別して話したり、報告したりすることが大切であると良く教えられて来た。 全くその通りである。 でなければ判断を誤ることになる。

 しかし、道を聞く場合、これを相手に強要することは難しいであろう。 信用するにしても、しないにしても、聞く方の技量による。 また、一方では、聞き取りの問題かもしれない。 断言したのではなくて、「私は、~と思う」 と付加えていたかも知れないからである。 何故なら、話し言葉の正確さの問題となれば、日本人の方がよほど曖昧かも知れないからだ。





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